プロフィール

 

東 修平の経歴をご紹介いたします。

氏名 東 修平(あずま しゅうへい)
誕生日 昭和63年10月3日 O型
出身校 おかやま幼稚園
忍ケ丘小学校
四條畷中学校
四條畷高校
京都大学 工学部
京都大学 大学院工学研究科
職歴 外務省環太平洋経済連携協定(TPP)を始め、貿易協定の交渉に関する業務に従事。 野村総合研究所インドアジア新興国を中心に、企業のグローバル事業戦略・経営戦略の策定を支援。

学生時代のエピソード

小学校時代

音楽と、出会う 忍ケ丘小学校のときは、地元合唱団の「畷ジュニアハーモニー」に所属していました。 市民総合センターや教育文化センターで練習している光景が、今も脳裏に焼き付いています。この頃から、音楽が自分にとって一番の癒しとなりました。
集中力が、鍛えられる 合唱の練習以外は、とにかくテレビゲームに没頭していました。 一日中、新しい攻略法はないかと考え、自分なりの試行錯誤をひたすらを繰り返していたので、得意の集中力はこの時に養われたと信じています。

中学校時代

とにかく、走る 四條畷中学校では、ソフトテニス部に所属。 しかし、部員が多くてなかなかコートに入れず、特に1年生のときはひたすら校舎の周りを走る毎日でした。その分、休日の朝5時ごろに起きて友人と市民コートへ練習に行ったのは、今も良い思い出です。
新競技を、導入する 生徒会執行部にいたとき、体育大会に全学年が協力して行う団体競技を加えたいと思い、新競技として「110人111脚」を導入しました。 新たな試みだったので、始めは練習もなかなか上手くいかず、100人を超える人にわかりやすく説明して動いてもらうことの難しさを痛感しました。

高校時代

三足のわらじを、履く 四條畷高校では、校内最大行事の文化祭を支える実行委員会に3年間所属。 同時に、合気道とギターマンドリン部にも所属しました。3つの掛け持ちが大変と感じるときもありましたが、その分3倍楽しむこともできたと思っています。ちなみに写真は、体育祭実行委員として新競技「動く玉入れ」を提案し、自ら動く玉入れ台となったときのものです。
ひたすらに、勉強する 3年生の8月から「毎日10時間必ず勉強する」と誓いを立て、一切の甘えを捨てて忠実に実行しました。 勉強の開始時期が遅かったので、最後の模試も「E」判定でしたが、家族の支えもあり、京都大学になんとか現役で合格。努力は裏切らないと信じ、突き進んで良かったと思います。

大学時代

物理学に、感動する 中学生のときに科学雑誌『ニュートン』を読み、物理学の世界の奥深さに感動しました。 科目としては日本史が一番好きでしたが、今しか本格的に学べないと思い、京都大学では物理工学を専攻。幅広く物理について学びながら、特に原子力について深く勉強しました。
マンドリンに、没頭する 勉学の傍ら、高校から始めたマンドリン演奏に没頭。 それこそ、朝から晩までずっと楽器を弾いていました。大学3回生のときに出場した国際コンクールにおいて準決勝進出を果たせたときは、とても嬉しかったことを覚えています。

大学院時代

政治の道を、意識する 京都大学の大学院に入る直前に、福島の原発事故が発生。 正直なところ、原子力を学ぶ学生として当時の政府の対応を見て納得できないところがありました。しかし、文句を言うぐらいなら自らがその道に進もうと思うに至り、まずは国家公務員I種試験を受験。必死に勉強した甲斐もあり、工学分野の受験者としてトップの成績で合格を果たせました。
英語力を、鍛える これからは必ず英語力が必要になってくると思い、3ヶ月ほどフィリピンへ語学留学。 その後、日本で原子力を学ぶ学生の代表として、インドネシアやマレーシアに行き、現地の学生とエネルギー事情について様々な議論を行いました。多くの異なる国籍の人と様々な話題で盛り上がることができ、英語の偉大さを改めて実感しました。

社会人時代のエピソード

外務省

国で、働く まずは国家の中枢で現場経験を積みたいと考え、霞が関の中でも政府首脳に一番近いと言われる外務省に入省。 主にTPPといった自由貿易協定に関する業務を担当しました。国と国との条約に関わる仕事はスケールが大きく、想像以上の激務であったものの、やりがいを感じる毎日でした。
国の限界に、気づく しかし同時に、短いながらも国の中で働いたことで、もはや国は自ら改革を行えないぐらい規模が大きくなり過ぎていることも痛感しました。 このとき、これからは地方からこそ日本を変えていかねばならないという思いが次第に強くなりました。

野村総合研究所インド

経営の現場に、携わる 地元に戻って自らが貢献するためにも、まずは民間企業にて経営の現場経験を積む必要があると考え、転職を決断。 また、これからの時代は地方でも海外との連携なくして成長はありえないとの考えから、海外で経営コンサルタントになることを選択しました。
世界で、働く 野村総合研究所インドにて、インドや東京、その他のアジアを飛び回り、企業の事業戦略の策定支援に携わりました。 勤務先はまだまだ拡大期にあったため、新入社員の私にも仕事をどんどん任せてくれる環境にあり、激務ながらも充実した毎日を過ごしていました。

決断

四條畷に、危機感を感じる 転職が決まってインドに渡航した直後、父が末期がんであることが判明しました。 インドから東京へ出張することも多かったので、合間を縫って四條畷に戻ってくる機会が増えました。その中で、四條畷市は改革が全く進んでおらず、人口・財政・産業どれをとっても良くない状態にあることを知り、強い危機感を抱きました。
政治の道を、志す 「このままの状態があと数年も続けば、四條畷は大変なことになってしまう。 それならば、これまで行政と経営の現場で学んできた経験を活かし、今こそ生まれ育った故郷に貢献したい」と思い、勤めていた会社を辞め、四條畷のまちづくりに人生をかけて取り組むことを決意しました。

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