プロフィール

東 修平の経歴をご紹介いたします。

氏名 東 修平(あずま しゅうへい)
出身校 おかやま幼稚園(現 四條畷あおぞら幼稚園)
忍ケ丘小学校(バドミントン部)
四條畷中学校(ソフトテニス部)
四條畷高校(合気道部、ギターマンドリン部)
京都大学 工学部(マンドリンオーケストラ)
京都大学 大学院工学研究科
職歴 外務省
環太平洋経済連携協定(TPP)を始め、貿易協定の交渉に関する業務に従事。

野村総合研究所インド
アジア新興国を中心に、企業のグローバル事業戦略・経営戦略の策定を支援。

学生時代のエピソード

小学校時代
  • 音楽と、出会う

    忍ケ丘小学校のときは、地元合唱団の「畷ジュニアハーモニー」に所属していました。市民総合センターや教育文化センターで、練習している光景が脳裏に焼き付いています。この頃から、音楽が自分にとって一番の癒しとなっています。

  • 集中力が、鍛えられる

    合唱の練習以外は、とにかくテレビゲームに没頭していました。一日中、新しい攻略法はないかと考え、ひたすらトライ&エラーを繰り返していたので、得意の集中力はこの時に養われたと信じています。

中学校時代
  • とにかく、走る

    四條畷中学校では、ソフトテニス部に所属しました。部員が多くてなかなかコートに入れず、特に1年生のときはひたすら校舎の周りを走る毎日でした。

  • 新競技を、導入する

    生徒会執行部にいたとき、体育大会に全学年が協力して行う団体競技を加えたいと思い、新競技として「110人111脚」を導入しました。新たな試みだったので、始めは練習もなかなか上手くいかず、100人を超える人にわかりやすく説明して動いてもらうことの難しさを痛感しました。

高校時代
  • 三足のわらじを、履く

    四條畷高校では、校内最大行事びの文化祭を支える実行委員会に3年間所属。文化祭の前後は、それこそ早朝から深夜まで裏方として準備に明けくれました。同時に、合気道とギターマンドリン部※にも所属していました。3つの掛け持ちが大変と感じるときもありましたが、その分3倍楽しむこともできたと思っています。
    ※マンドリンは、バイオリンギターを混ぜたような弦楽器の一種です。

  • ひたすらに、勉強する

    3年生の8月から「毎日10時間必ず勉強する」と誓いを立て、一切の甘えを捨てて忠実に実行しました。勉強の開始時期が遅かったので、最後の模試も「E」判定でしたが、家族の支えもあり、京都大学になんとか現役で合格。努力は裏切らないと信じ、突き進んで良かったと思います。

大学時代
  • 物理学に、感動する

    中学生のときに科学雑誌『ニュートン』を読み、物理学の世界の奥深さに感動しました。そのままの勢いで、京都大学では物理工学を専攻。幅広く物理について学び、ながら、特に原子力について深く勉強しました。

  • マンドリンに、没頭する

    勉学の傍ら、高校から始めたマンドリン演奏に没頭。それこそ、朝から晩までずっと楽器を弾いていました。大学3回生のときに出場した国際コンクールでは、準決勝進出を果たせたときは、とても嬉しかったことを覚えています。

社会人時代のエピソード

大学院時代
  • 政治の道を、意識する

    京都大学の大学院に入る直前に、福島の原発事故が発生。正直なところ、原子力を学ぶ学生として、当時の政府の対応を見て納得できず、批判もしていました。しかし、文句を言うぐらいなら自らがその道に進めもうと思うに至り、まずは国家公務員Ⅰ種試験を受験。必死に勉強した甲斐もあり、工学分野の受験者としてトップの成績で合格を果たせました。

  • 英語力を、鍛える

    大学院で研究している中、これからの時代は必ず英語力が必要になってくると痛感し、3ヶ月ほどフィリピンへ語学留学しました。フィリピンは公用語が英語でありながら、物価が欧米と比べて圧倒的に安く、英語を学ぶには最適な場所と思います。

外務省
  • 国で、働く

    まずは国家の中枢で現場経験を積みたいと考え、霞が関の中でも政府首脳に一番近いと言われる外務省に入省。主にTPPといった自由貿易協定に関する業務を担当しました。

  • 国の限界に、気づく

    国と国との条約に関わる仕事はスケールが大きく、想像以上の激務であったものの、やりがいを感じる毎日でした。それと同時に、もはや国は自ら改革を行えないぐらい規模が大きくなり過ぎていることも痛感しました。

野村総合研究所インド
  • 経営の現場に、携わる

    これからは地方からこそ日本を変えていかねばならないという思いが次第に強くなりました。そのためには、まずは民間企業にて経営の現場経験を積む必要があると考え、転職を決断。また、これからの時代は地方でも海外との連携なくして成長はありえないとの考えから、海外で経営コンサルタントになることを選択。

  • 世界で、働く

    野村総合研究所インドにて、インドや東京、その他のアジアを飛び回り、企業の経営戦略の策定支援に携わりました。

決断
  • 四條畷に、危機感を感じる

    インドに渡航直後、父が末期がんであることが判明。インドから東京へ出張する傍ら、四條畷に戻ってくる機会が増えました。その中で、四條畷市が他の市と比べてあまり改革が進んでいない事実を知り、強い危機感を抱きました。

  • 政治の道を、志す

    それならば、これまで行政と経営の現場で学んできた経験を活かし、生まれ育った故郷に貢献したいと思い、四條畷のまちづくりに人生をかけて取り組むことを決意しました。

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